株式会社テリオ

ふくろう通信

円通やしん禅堂ぜんどう

      風薫る

(三島・龍澤寺 中川 宋淵老大師)

令和3年8月31日

今年の夏も異常な暑さだったが、処暑を過ぎる頃から少しばかり涼しさを感じる様になった。冬に比べて夏はどうしても好きになれない。特に80歳を過ぎたころから夏は生理的に苦手になった。しかし昔の夏は、私の独壇場だった。

サ-フィンのボ-ドを持った若者達に出会う度に、70年も前の静岡県田子浦の海の追憶が、しょっぱい塩の香りとなって甦ってきた。

学校から飛んで帰ると誰ともなく子供達が浜に集まってくる。お互いに約束をした訳でもないが自然に群れてくる。自分で作ったもりをもって素潜りで黒鯛を漁る。たこも面白いように漁れた。重りを付けた舟形の仕掛けに、蛙の皮を剥いてわき、その先に長い紐をつけ沖まで泳いで投げ捨てて来るのだ。

泳ぎの出来ない子供は、みんなで示し合わせて浮き輪に乗せて、沖で放り投げて泳ぎを覚えさせる。何もかも夢のような子供だけの世界がそこにあった。

土用波(盆波ともいう)が始まる8月の10日頃からは、駿河湾の様相が一変して来る。その荒波に翻弄ほんろうされながら、我先にと危険な波を乗り切る競争が始まる。恐くなって波乗りが出来なくなった者から順に陸に上る。

昔から盆波のときには、けっして泳いではいけないと、村の古老の漁師から聞いたことがあった。

「盆波は引きが強くて、沖に引っ張られるぞ。それは盆に供養してもらえなかった精霊達が、おまえ達を道連れにするのだ。」と。

社会人となって60年、海をみることも泳ぐことも忙しいことにまぎれていつしか遠くに忘れてしまったが、夏が嫌いになった二つの大きな出来事が思い出される。

とりわけ娘を、下田の弓ケ浜の海で亡くしてからは、私にとって海は誠に忌わしい存在となってしまった。

その娘の三十三回忌も、昨年無事に済ませることが出来た。せめて娘の三十三回忌までは生かして欲しいと神に祈った。長くて辛い33年だった。

海については、また一つ苦い思い出が頭をよぎる。

息子が高校生になったばかりの夏、親戚の子供達と海水浴に出掛けることになった。高校生になった息子が、誘われてみんなと行くと決めたことであり、私があれこれいう事でもない。

息子も当然そう思っていたことであり、予め親の承諾をとるまでもない、行く時に報告すればよい、くらいに簡単に考えていたと思う。

愈々今晩出発するという夜、私は帰宅してその話を聞いた。「どこで泳ぐの。」と聞くと伊豆だという。

伊豆と聞いただけで、私はもう平常心でいられなかった。忌わしい出来事が私の脳裏を横切った。伊豆は米山家にとって鬼門なのだ。

「伊豆は駄目だ。」と言葉もとがっていった。

「どうしてだよ!」息子も気色ばんで、いまさら中止する訳には行かないと、いうように珍しくむっとした顔をした。

「行かせて呉れよ、みんなと約束したんだよ。」と息子は、嘆願調でいった。「だめだ。伊豆はおねえちゃんが遭難したところだからだめだ。」私は頑として首を立に振らなかった。

可哀想なことをしたと思った。人並みに海水浴も自由にさせられない自分の心の狭さを悔いた。「しかしやはりこれで良いのだ。」という別の心が強くなった。おぞましいあのような経験は、どんなことがあっても、二度と我が家にあってはならない、という強い気持だった。

息子は、姉の遭難という私の言葉でやっと諦あきらめてくれた。不びんな息子のために、その夜はひとり布団の中で泣いた、そして心から詫びた。

多感な小学校時代の息子の脳裏に刻み込まれた弓ケ浜の悲しみは、けっして消えることなくずっと心の中にあったはずである。

もうこんな悲しみは私だけでいい。そう思っていた次の年の8月15日、お菓子工場の渡辺君の最愛の息子さんが、読売ランドのプ-ルで溺死した。長女を身体障害者として生んだ彼にとって、長男は掌中の珠であり、生きる全てであった。

世間の何もかもが、自分に背を向けて流れて行く。絶望ののち、彼は、それからしばらくして、失意の内に会社を去った。引き留める言葉もなかった。どうすることも出来なかった。手をさしのべる術もなかった。

痛い深い反省であった。共に深い悲しみを共有していたつもりの私が、結果として、悲しみにあえぐひとりの社員すら救うことが出来なかった。

無力な己の力に絶望した。どうやら私にとって夏は、仏滅と三隣亡である。

記録ずくめだった猛暑にも朝夕は、めっきり秋の気配が差し込んできた。これから疲れの出る頃です。呉々もお体をお大切に。

 

合 掌

米山 昌英

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