株式会社テリオ

常夏の常世の花のひとつづ、

(三島・龍澤寺 中川 宋淵老大師)

 娘の三十三回忌を激しい雨の中で、無事に終えることが出来た。
 ホッとしたというか、大きな心の荷物を下ろしたというか、誠に感慨深いものがある。
まわしい海の事故で娘を亡くしたのは32年前の7月30日の事であった。
 当時娘は、大学卒業後、富士通に通っていた。新入生のお世話役を終えて、同僚たちと束の間の夏休みを、下田の弓ヶ浜にある会社の保養所に出かけた時の出来事であった。23歳の夏のことである。
 この時期、わが家では嫌なことが続いていた。私の白内障の手術から始まり、父の死去、娘の遭難事故と続き、次の年の7月、今度は私が急性肝炎で入院した。
 丁度51歳の時である。風邪の症状が続いた。なんとなく身体がだるい。医者は風邪だという。微熱が続いて体が重い。いつもなら風邪薬を飲めば、一晩で直る。それが一週間も続いている。そんなある月曜日の朝、起きようとしたがどうしても起きられない。自分の体が自由にならない。異常事態である。掛かりつけの診療所に出かけた。
 診察を受けていると突然、看護婦さんが「黄疸が出ている!」と。
早速府中病院を紹介されて行くとそのまま入院となった。病状は急性肝炎であるという。しかし実情はけっしてそんな甘いものではなかったようである。知らないのは本人だけである。妻は、先生から「劇症肝炎」の恐れがあり、一両日いちりょうじつが山であると言われた。かなりの重症であった。肝機能のGOTは、4,300を軽く超えていた。
 海の事故で最愛の娘を亡くした次の年の出来事である。妻は、3年連続で葬式を出すのかと途方に暮れた。すっかり動転し、憔悴しょうすいして財布を落とした事も判らずに帰宅したほどであった。
 しかし私は幸運だった。無事に45日間の入院生活を終えて、奇跡的に生還した。病を経て肝臓の怖さと大切さを痛感した。同時に人間は、生きたいと思っても、どうにもならない運命というものがある、ということを思い知らされた。人は自らの力だけでは生きられない、生かされているのだという、知命の尊さを知らされた。
 きっと前年に亡くなった娘が、私の身代わりを引受けて呉れたのだ、と深く感謝し反省した私は、娘の三十三回忌までは、なんとしても生かして欲しいと神に祈った。
それ以後、私はアルコール類を一切絶つ決心をした。心に誓ったのである。
 神様が「もう少し生きて、娘さんの供養をしなさい。」と耳元でささやいて呉れたような気がした。33回忌までは何としても生きるのだ、生かして欲しいと。
 娘が極楽浄土に旅立つ「三十三回忌の法要」は、何としても私達夫婦の手で弔ってやりたいと心に決めた。
 妻は、その日から仏壇に「陰膳かげぜん」を用意して娘の供養を続けた。それは32年間、一日も欠かさずに続けられたのである。
これからの永い歳月を悔いなく大切に生きるために、先祖供養を兼ねた毎歳忌をずっと続ける決心をした。
 歳月は流れて32年、先祖供養を兼ねた毎歳忌は、娘の「三十三回忌」を斎行するところまでようやく辿たどり着いた。大きな荷物を下ろしたとは、そういう意味である。
 毎歳忌を通して長い間お世話になった菩提寺の龍源寺さんは、娘の葬儀を執行して下さった方丈さんも既に遷化し、良孝和尚さんを経て、今回初めて御子息の新命和尚へと継承されたのだ。32年間は、けっして短い歳月ではなかったのである。
 今回の法要を厳修して下さった新命和尚は、永平寺の厳しい修行で鍛え抜かれた声量で、浪々と力強く腹の底から獅子吼し、その力量を披露して下さった。娘の浄土の旅立には何よりのはなむけとなった。有難くも尊いご縁を頂いたものである。

合掌

米山 昌英