株式会社テリオ

ふくろう通信

魔訶般若波羅蜜多心経  まかはんにゃはらみたしんきょう

古稀こきの春

(三島・龍澤寺 中川 宋淵老大師)

令和3年3月5日

 なんとも心に深く沈む、重い報告が届いたものである。 雪竹正英氏の死去の報である。小田急不動産株式会社の前社長で、私にとっては事業のうえの大恩人であった。
 元気でいると聞いて居たし、信じていた己の迂闊さに思わず言葉を失ってしまった。悲しい現実に、まず約束を果たせなくなった後悔が先に頭をよぎった。
 社長を退任して顧問職を無事に終えた昨年6月にご挨拶に伺った。「長い間ご苦労様でした。」「近々お食事をしませんか。」とお誘いしたところ「米ちゃん!ゴルフにしようよ。ゴルフのほうが良いよ」という返事であった。年を経てゴルフが難儀になってきた私は、「ゴルフに耐えられる体力を作りますから少し時間をください。」と応じて食事の話は消えた。
 人望の厚かった雪竹社長は、退任後もお座敷が多く、ゴルフは現役時代よりも忙しいということをその時聞いた。
 「米山さん!いつまでも元気でいられると思わないで、後継者をしっかり決めて準備をしなさいよ!」
 「間違いなく何年か先には、体が動かなくなるのだから早いということはないよ。」というのが氏の口癖であった。いま思うとそれは、遺言のよう聞こえて耳元を離れない。
 雪竹氏は、 確か6年前、別の治療で偶然に初期のがんが発見された。その時、医師に「とてもあなたは運のいい人だ。」と手術の成果を伝えられたという。その後、順調に5年を無事に過ぎて、さらに自信を深めたようである。事実自信のほどを、会う度に語ってくれたものである。
 訃報に接する数日前に、小田急グループのある社長にお目にかかった折、「雪竹社長と先週ゴルフをしたばかりだが、その時、体調が少し悪いようだ。」ということを聞いた。人は、こんなにも簡単に幽冥ゆうめい境をことにするものだろうか、今は只管ひたすらご冥福を祈るばかりである。
 雪竹社長は、昭和49年武蔵工業大学を卒業して、小田急電鉄に入社した技術系の人であり、同期には終生仲の良かった小田急トラベルの社長等を歴任した金田社長がいる。
 2005年取締役に昇格、同8年に小田急商事の社長に昇格、電鉄の執行役員ビル事業部長から常務取締役生活創造事業本部長などを歴任、2013年小田急不動産株式会社社長に就任、2018年4月1日退任まで大いに活躍された。

 振り返って、雪竹社長との最初の出会いは、正確にはよく覚えていない。勿論ビル事業部に在籍の頃ではないかと思う。そういえば、電鉄の今は亡き澤常務さん(当時)がビル事業部の担当をしていた頃、澤さんのご子息が「正秀」といい、雪竹社長が「正英」で、私の名前が漢字こそ違うが「昌英」と、マサヒデ3人が揃ったご縁で、とても可愛がって頂いた。多分そのころに急に親しくなったと記憶している。
 黒光りする目をギョロっとさせて、歯に衣を着せることなく言いにくいことを直截に話してくれた。特に私の会社の後継者のことでは、私が60歳の時に社長を譲り、会長に就任、その後さらに次の社長を子飼いの常務に継がせようと相談した折、「同族会社でオーナー経営者は、終生社長を続けなければだめだ。」、「オーナー会社だから格好をつけて会長だ、社長だと屋上屋を重ねる必要はない。」と実に辛辣であった。まさに雪竹社長の面目躍如であった。後年、私が後継を託したわが社の二人が、病に倒れ、結局私が社長に復帰したことを思うと雪竹社長の忠告は、まさに的を射たありがたい忠告であった。

 もうひとり約束を果たせず悔いを重ねてしまったおかたがいる。
 お世話になった大徳寺派広徳寺の福富海雲和尚との小さな約束事である。
 20年以上に亘り、日曜日になると広徳寺の暁天ぎょうてん坐禅会に通って直接ご指導頂いた禅の指導者である。私が通い始めた頃は、大徳寺の管長に就任したばかりの雪底老大師も本山の管長職をこなしながら坐禅会で坐ってご指導頂いた。何よりも坐禅、作務さむの後に開かれる作例されいがとても楽しみであった。
 海雲和尚は、私と同年の昭和12年生まれで、妙にウマが合った。ズケズケとなんでも本音をぶつけて大きな声で、鬼瓦おにがわらの様な形相で叫ぶように話すひとであった。私が腰と膝の故障で坐ることが出来なくなると、記念に墨蹟をくださった。この墨蹟のことについては以前、ふくろう通信で書いた。
 お亡くなりになる丁度半月前に、和尚と久しぶりに話をした。「たまには美味しい食事でもご一緒しましょう。」と約束をした。和尚曰く「練馬の田舎もんだから新宿は判らんよ。仏滅の日ならいつでも空いているから迎えに来てくれ。」ということで電話を切った。
 数日後、約束を果たすべく電話した。小僧さんが電話に出て、「和尚さんは入院しました。軽い脳梗塞のようです。」ということであった。迂闊うかつにも「その軽い」という言葉に迷わされて、こちらも軽く考え、後でお見舞いに行けばいいか、と入院先を聞いて電話を切った。
 間もなく道友から電話が掛かって来た。海雲和尚が亡くなった知らせであった。
自らの迂闊さと約束を果たせなかった悔恨とが交差して、取り返しのつかない寂しさと無念さで胸が締め付けられた。  わたしは、自らの悲しみをいやすつもりで、和尚から頂いた墨蹟を床の間に掛けて、心から冥福を祈った。
 風光り、土の匂いに心弾む頃となって、ようやく心の整理をつけて、二人の恩人のコラムを書く気持ちになった。凡人には心を癒すひとときが必要であった。
 心よりお二人のご冥福をお祈り申し上げます。  

合掌

米山 昌英

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